芸術家として有名な草間彌生さん!
奇抜でカラフルな作品は、一度見ると忘れられないものばかりです。
そんな草間彌生さんの幼少期や病気について調べてみました。
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草間彌生の病気:統合失調症について
私はどの精神科でも不安神経症、強迫神経症と言われたわ。
草間彌生さんを長年苦しめてきた病気…「統合失調症」
どのような病気なのか、調べてみました!
統合失調症は、考えや気持ちがまとまらなくなる状態が続く精神疾患で、その原因は脳の機能にあると考えられています。
約100 人に1 人がかかるといわれており、決して特殊な病気ではありません。
草間彌生さんの持病である「強迫神経症」や「統合失調症」による幻覚や幻聴の恐怖から身を守る為に、作品全体を水玉で埋め尽くす儀式として行われていると言われています。
『宇宙はたくさんの水玉の集まりで、人間と言うのはそういう水玉が集まって生きているんだ、そうでなければ生きていけないのだ』
このように、草間彌生さんのメッセージが込められています。
草間彌生さんが悩まされていたのは、「強迫神経症」や「統合失調症」でした。
その病によって、水玉に執着するようになったようです。
また、こんなものにも病気との関連があったようです。
かぼちゃをよくモチーフとして使う理由は、草間彌生さんにとってかぼちゃは、言わば守り神のような存在だからです。
幼い頃、幻覚や幻聴などで苦しんでいる時に、祖父の畑にあったかぼちゃを抱きしめることでとても落ち着いたそうです。
かぼちゃがモチーフなのも、そのような理由があったようです。
もちろん、そのかぼちゃにも水玉は欠かせないものとなっています!
このように、草間彌生さんの作品へのこだわりには病気と大きな関わりがあったようです。
草間彌生の病気の原因は?
子供の頃から、自〇への憧れがすごくありました。
家庭環境に悩んで、幻聴や幻視にとらわれてものすごく恐ろしくて、毎日、自〇したいと願うほど追いつめられて。自〇を思いとどまらせてくれたのは、絵を描いたり、作品を創ったりすることだった。
草間彌生さんの病気は幼少期からとのことですが、その原因とは何だったのでしょうか?
これほどまでに苦しい思いをされた草間彌生さんの若い頃は、非常に壮絶でした…
現代美術華やかな25年前頃、米のソーホーを真似て新木場「廃墟ビル改造の仮設現代美術スペース」や世田谷美術館。
ここではっきりと「草間彌生氏と実父の近○相関」=父に〇されたゆえ、草間氏は強度の脅迫神経症となり、真っ白な男性器を仇のように制作している草間氏が作品とともに紹介されていました。
あまり大々的になっていませんが、草間彌生さんの病気は幼い頃に父親から受けた性○暴力が原因であると告白されていたようです。
ご覧のように、男性器と思われるモチーフが所狭しと並んでいる作品が多々存在します。
作品によって、男性である父を憎む気持ちを表わしているようです。
なんだか草間彌生さんの作品を見るだけで怖いと感じてしまうのは、そうした憎悪が感じられるからかもしれませんね。
草間彌生の精神病院はどこ?清和病院?
草間彌生さんは今も精神病院に入院されており、ご自身で病院からアトリエに通っているとお話されています。
その病院は一体どこなのでしょうか?
病院を家にしてそこから自分のアトリエに通う、という衝撃のラフスタイルを維持していることを数年前のテレビでやっていました。
草間彌生さんにとっては病院が一番落ち着く場所なのだそうです。
そんな彼女の住んでいる精神病院ですがどこなのでしょう?
草間彌生さんが通っているアトリエが東京都新宿区にある「草間スタジオ」というアトリエです。
住所は新宿区弁天町となっています。
ここは一応株式会社なので情報はちゃんと公開されています。
草間彌生さんは車椅子ですから、病院もこのスタジオからはさほど離れていないことが予測できます。
確かにアトリエと病院は近いはず…ということで、さらに調べを進めました!
1977年に草間は新宿区にある清和病院に入院し、最終的には、病院での創作活動が中心となった。
ここから草間は著述業と並行するかたちで、さまざまな絵を描き始める。
入院生活は、マイナス要素にはならず、逆にその後の草間芸術を発展するための基盤となった。
なんとこの晴和病院、調べたところ新宿区弁天町にありました!
草間彌生美術館ともかなり近い距離のようです。
これで草間彌生さんの入院先は晴和病院で間違いないと思います。
草間彌生の幼少期の画像が可愛い
草間彌生さんといえば「水玉」の作品で有名になりました。
そもそも草間彌生さんが芸術の道へ進んだのは、どのようなきっかけだったのでしょうか?
草間彌生は、長野県松本市生まれ。種苗業を営む裕福な家に生まれました。
本格的に絵を描き始めたきっかけは、少女時代から統合失調症にかかり、悩まされていた幻覚や幻聴から逃れるために、それらの幻覚・幻聴を絵にし始めたことから。
彼女は自らに襲い掛かってくる幻覚や幻聴から自分を守るため、作品を水玉模様で埋め尽くす儀式をしているとも言われています。
草間彌生といえば「ドット」ですが、幼少期の頃からすでにその原点があったんですね。
水玉の作品が生まれたきっかけは、幼い頃に悩まされた幻覚や幻聴だったのですね!
元々、スケッチなど絵を描くことが好きな女の子だったようです。
草間彌生の若い頃のエピソード
草間彌生さんが芸術の道を切り開いたのは、16歳の時でした。
1945年、戦争の時に疎開してきた画家らが立ち上げた「第一回全信州美術展覧会」で並み居る顔ぶれの中、なんと16歳で入選を果たします。
その後京都市立美術工芸学校(現:京都市立銅駝美術工芸高等学校)の4年生最終課程に編入して日本画を学び、翌年卒業します。
草間彌生さんは、最初は現在のような前衛的なアート作品とは正反対の日本画を勉強していました。
このように、16歳という年齢で入選してしまうほど、当時から才能を開花していました。
しかし、現在の作風とは違い、日本画をお勉強されていたのは意外でしたね!
その後日本画には興味が無くなり、1957年には渡米しました。
絵画や立体作品の制作だけではなく、1960年代後半になると、彼女のボディ・ペインティングやファッションショー、反戦運動などは、その過激さから「ハプニング」と称されました。
そしてすでに1960年代には「前衛の女王」の異名をとります。
また、自作自演の映画、「草間の自己消滅」は、第四回ベルギー国際短編映画祭に入賞し、ヨーロッパ各地でも「ハプニング」を行っていきます。
当時の人々からすると、彼女の存在は相当異質で面白いものだったのです。
日本画を辞めてから、海外へ飛び出すという行動力には驚きです!
絵画だけでは表現が収まらなかったのか、ファッションなど活動の幅が広がったようです。
もしもこの時アメリカに行かなかったら、今の私はなかったと思う。
それまでの私の環境はあまりにも保守的で、とにかく一日も早く外に出て行くことが私の夢であり、闘いだった。
上記のように発言するなど、アメリカへの渡米が大きな転機になったようですね。
その頃の草間彌生さんがこちらです。
ニューヨークの生き地獄の中では、毎日人々が精神的にも生活的にもまさに戦争であった。
私は当時その修羅場の中で、生きるか死ぬかの制作に全身全霊をかけて戦っていた。十代の終わりや青春時代の生き様、家庭内の環境との戦いであった。
ファッションとアートの融合…とも取れる、攻めた作品ですよね!
「私の人生は芸術によって開かれました。私の芸術が評価され、愛されることを願って、死にものぐるいで闘ってきました」
このような発言をするなど、世界へ飛び出ても人びとから注目され続けました。
草間彌生の帰国理由は恋人との別れ?
世界を舞台に攻めた芸術を発表してきた草間彌生さん。
しかし、アメリカ時代の恋人との別れにより帰国しなければならなくなりました。
草間彌生さんはアメリカ時代に、ジョゼフ・コーネルという前衛芸術家のパートナーがいました。
しかし、1972年に心臓の疾患で突然亡くなってしまします。
草間彌生さんはショックで体調を崩してしまい、そのことが原因で帰国することになりました。
帰国後は入院するほど衰弱し、しばらくアーティスト活動をすることができませんでした。
最愛の彼を失った草間彌生さんは、そうして日本へ帰国されました。
その後の彼女はどうなったのでしょうか?
1978年に処女小説『マンハッタン自〇未遂常習犯』を発表して、小説の分野にも進出し、1983年には『クリストファー男娼窟』で第10回野性時代新人文学賞を受賞するなど、ようやく回復の兆しが見えました。
小説の内容は、草間彌生さん自身の統合失調症による幻視体験などをモチーフにしたものが多いようです。
絵画や立体作品だけでなく、小説として表現されたことには恋人の死という出来事の影響が強かったのかもしれません。
ちなみに、ジョゼフ・コーネルさん以外とはお付き合いされたという報道が無いようで、それからはお独りのようです。
草間彌生の息子は養子だった?
恋人を失ってから、草間彌生さんは他の方とご結婚などされていません。
しかし、息子さんが居るというのはどういうことなのでしょうか?
絵は草間彌生さん1人で描いていますが、スタジオスタッフが8名居て、草間彌生さんの作品作りをサポートしています。
現在は25年間、そのスタジオでディレクターとして一緒に過ごしている高倉功さんを養子として迎え入れているようです。
こちらが高倉功さんです…養子に迎え、戸籍上は息子さんとなっているようです。
高倉功さんはスタッフ、そしてディレクターとしてとても信頼を受けているんでしょうね。
草間彌生のメッセージが凄い!
今回は、個性の強い強烈なアート作品で知られる草間彌生さんを調べてみました。
奇抜な作品が作られた過程には、ご自身の苦悩などが影響していたと分かりました。
インタビューではこのようにお話しされていました。
芸術をしながら大きな宇宙を経験すると、自分は何も知らない存在だと思う。
死ぬまで芸術を続け、死後数百年が過ぎても有効なメッセージを残したい。
そのために全力を尽くしたい。
未来の多くの人々、世界の人々が戦争やテロの恐怖無く自分の愛、生きた人生を続けることを望む。
私の芸術が皆さんに伝える答えはこれです。
草間彌生さんの言葉は、暖かく優しいものを伝えてくれているような気がします。
芸術作品というのはなかなか取っ掛かりにくいですが、その後ろにあるメッセージを読み取るとそれでこそ世界が広がると思います。
現在、かなりの高齢ですが、自分のやりたい事をやり遂げるには『300歳まで生きねばならない』と言ったこともあるそうです。
草間彌生さんのように強い気持ちをお持ちの方であれば、100歳以上を目指すことも可能かもしれません!
今回は草間彌生さんをご紹介しました…
これを機に芸術に触れてみるのも良いかもしれませんね(#^^#)